――ナナリー

やわらかに降るその声は、いつだって優しかった。
それはまるで世界中の幸せをまるごと詰め込んだかのような、慈しむばかりの心地よい言葉。
離れ離れになっていた1年の空白に感じる不安を、いとも容易く吹き飛ばす至高の音色。

(お兄さま、お兄さま、お兄さま、……おにいさま)


ああ、はやく会いたい!



「――それでは本日の会議はこれまでと言うことで…総督、よろしいでしょうか」
耳に響いてきた確認を求めるその声に、ナナリーはわずかに俯けていた顔をあげた。
そして声を発したであろう男のほうへと顔を向け、
「はい。みなさん、ご苦労さまでした」
にこりと微笑み、ナナリーは解散の言葉を口にした。

ざわざわざわざわ、会議の出席者たちが次々と退出していく中、ナナリーはよく知る気配が近づいてくるのをじっと待った。
彼はことあるごとに、ナナリーに必ず声をかけてくるのだから。
高官たちがあらかた退出し、広い部屋に静寂が漂うころ、ようやく彼はナナリーの傍にやってきた。
「…ナ、」
「スザクさん、少しお話があるのですがよろしいでしょうか?」
ナナリーはスザクの言葉をさえぎり、閉じたままの瞼で彼を見上げ、問う。
その、いつも礼儀正しいナナリーらしからぬ態度と、微かに険しさをにじませる表情に、なんとはなしに退出せずにスザクを待っていたジノとアーニャ、そしてナナリーの傍らに佇んでいたローマイヤは驚いた。
けれどナナリーのらしくない態度を向けられた当の本人は平然とし、笑顔で「自分は構いません」と返す。
(あぁ、なんて嫌な人なんでしょう)
見えていなくとも分かる。
スザクは今、ひどく意地の悪い笑みを浮かべていることだろう。
一見とても優しげで、その実ちっとも優しくなんかない、ウソつきで冷酷な微笑みを。
それが分かっているから、ナナリーも口元だけでスザクに笑い返した。

空調がきいているはずの室内に、冷やかな空気が流れた。


人払いをした広い会議室の中、ナナリーとスザクは傍目には穏やかな笑みを浮かべながら向き合っていた。
まず口火を切ったのは、ナナリーだった。
「スザクさん、先日お話した電話の方ですが、ぜひ一度お会いしたいのです」
ですからお忍びで、私をアッシュフォード学園に連れて行ってください。
にっこりと、ナナリーは"電話の方"、すなわちルルーシュに会わせろと笑顔で無茶なことを言った。
しかし突然のその言葉にスザクは動じることもなく、
「だめだよナナリー。今の君は総督なんだから、何かあったら大変だ」
至極最もなことを言って、ナナリーのお願いを笑顔で拒否した。
しかしナナリーは予想していた通りのスザクの言葉にまったく怯むことなく、さらに言いつのる。
「ではスザクさん、もう一度電話の方とお話しさせてください」
「ごめんねナナリー、彼、普通の家の子で、もう二度とこの間みたいなことはしたくないって言ってて」
「そうなんですか……じゃあ、映像で構わないので何か借りてきてくれません?もちろん、音声が入ったものを」
「うーん、残念だけど、そういうのは持ち出し禁止を条件に、なんとか映ってくれるくらいカメラ嫌いなんだ。だからちょっと無理だね」
「…でしたら写真はどうです?」
「あー、彼、そういう他人に見られるものをとにかく嫌がるから、それもちょっと…」
「……スザクさん、私に電話の方と接触されると何か困ることでもあるんですか?」
「まさか、そんなことはないよ」
度重なるスザクの拒否に、ついにナナリーの顔から笑みが消えてしまう。
ナナリーは眉根を寄せてスザクを睨みつけるが、闇の中、伝わる彼の空気は愉悦を含んでおり、殊勝な言葉とは裏腹にまったく申し訳ないとは思っていないことが分かり、さらに顔がこわばる。
最愛の兄であるルルーシュを思い描いていたときとは正反対の感情が、ナナリーの心を占める。
それがどうしようもなく嫌で、ナナリーはますます表情を険しくしてしまう。
(お兄さま、お兄さま、…私はお兄さまのことだけを考えていたいのに、お兄さま以外のことで心を乱されたくないのに、)
それなのにそれなのに、スザクはナナリーに不快感と苛立ちばかりを与えてくる。
まったく、腹立たしいことこの上ない!
(スザクさん、私、あなたのことが大嫌いなんです)
初めて出会ったその日から、ナナリーはスザクのことが嫌いだった。
いつだってナナリーからルルーシュを取り上げようと手を伸ばしてくるスザクのことが、嫌いで嫌いで仕方がなかった。
つい、スザクが戦場でうっかり殺されてしまえばいいのにと思い、時たま、どうして離れ離れになったあのときに死んでいてくれなかったのだろうと考える程度には、ナナリーはスザクを嫌っていた。
いっそ憎んでいると言ったほうがいいかもしれない。
ナナリーはのらりくらりと欲しい返事を寄こさないスザクにじれ、さっさと最終手段に出ることにする。
「…スザクさん、本当はこんなこと言いたくないのですが…」
「何、ナナリー?」
相変わらず笑みを含んだ優しげな声に苛々をつのらせながらも、ナナリーはなんでもないような顔を繕い、
「枢木スザク、ナナリー・ヴィ・ブリタニアが命じます。先日の電話の方と…ルルーシュお兄さまと私を会わせなさい」
有無を言わせぬ硬質な口調で今のナナリーが持つ権力を利用した。
それにスザクは不快気な色を瞳に浮かべたが、しかしナナリーに悟られないよう瞬時に仕方がないとでも言うような苦笑を浮かべ、きれいに覆い隠してしまう。
「イエス、ユア・ハイネス。ナナリー総督」
頭を垂れてのスザクの従順な言葉に、しかしナナリーは決して油断しなかった。
なぜならスザクの隠そうともしない雰囲気は、ナナリーのささいな望みを強制的に叶えさせられることへの不穏さを、まるで持っていなかったから。
(…何を企んでいるのですか、スザクさん)
いやに素直に電話の相手がルルーシュであることを認めてみせたスザクに、いいようのない不信感が頭をもたげる。
ナナリーは警戒心も露わに、ルルーシュをはさんで敵対関係にある、想像するしかない男の顔を睨みつけた。
それにスザクは浮かべていた苦笑を歪な笑みへと変化させ、愛らしい姿をした邪魔者を打ち崩すための第一手を放つ。
「ナナリー総督、実はルルーシュ殿下にお会いになられる前に、ぜひ知っておいていただきたいことがありまして」
「…なんでしょう?」
ナナリーはスザクが、幼なじみであり敵であるものから総督であるナナリーの側近へと、その言動を切り替えたことにますます不信感を強くする。
「どうか落ち着いて聞いてください。…ルルーシュ殿下は現在、記憶を失っております」
「……それはなんの冗談ですか、スザクさん」
ルルーシュが記憶喪失、その言葉にしかしナナリーは取り乱すことなく冷静だった。
なぜならナナリーは、ルルーシュがスザクの言う記憶喪失になどなっていないことを既に知っていたから。
けれどルルーシュとほんの少し話した際、他人のふりをしてくれと頼まれたことを忘れていなかったナナリーは、スザクにそれを教えない。
(残念でした、スザクさん。あなたは私の敵で、私はお兄さまの味方なんです)
それは何があろうとも、決して覆ることのない事実。
だからなぜかは知らないが、記憶喪失であるらしいルルーシュが実は既に記憶を取り戻していること、そしてそれをスザクには知られたくない様子だったことを思い出し、ナナリーはごく自然にルルーシュが隠したいことを隠した。
かくりと細い首をかしげ、何を言っているのか理解できないと演じてみせるナナリーに、スザクはすぅと目を細めた。
口元には不穏な笑みを浮かべ、ごく自然にルルーシュを庇う姿勢を見せたナナリーを観察するように眺める。
その目には年下の幼なじみに対する好意など、かけらも見えなかった。
あるのは紛れもない、敵意だけ。
スザクの刺すような視線に気づきながら、あえて気づかないふりを装いナナリーは思う。
(きっと私も、あなたと同じ目をしているんでしょうね)
瞼で覆い隠した闇しか見ることのない己の瞳に浮かんでいるだろう色を想像し、心の中でだけため息を吐く。
そうして白々しくスザクを仰げば、彼がふいに敵意を収めたのを肌で感じとり、なぜと今度は怪訝に眉根を寄せた。
「ナナリー、ルルーシュが記憶喪失っていうのは後回しにしてもいいかな」
唐突に口調を臣下のものから幼なじみのものへと変化させたスザクが、ひどくにこやかにそう言うのに、ナナリーは何を考えているのかと眉間のしわを増やした。
自分からルルーシュが記憶喪失であると告白してみせたにも関わらず、それを詳しい説明もなしに放り出してみせるスザクの考えが読めず、ナナリーは再び警戒心を抱いた。
「…なぜですか?」
「本当は、こっちが本題だから」
楽しげに言うスザクがナナリーに対してとてもひどいことを考えているのを直感的に悟り、ナナリーは反射的に心のガードを堅くした。
けれど。

「今、ルルーシュは弟と暮らしているよ」

その、スザクの言葉に、
「――え?」
ナナリーはがつんと、頭を殴られたかのような衝撃を受けた。
呆然とスザクの言葉を反芻するナナリーの耳に、さらに信じがたい言葉の羅列が入り込む。
「名前はロロ。ルルーシュは彼のことを本当の弟だと信じているよ」
「…なに、なにを、」
「ルルーシュはいつもロロロロうるさくてね、口を開けばロロのことばかりでさ、もう腹が立つのを通り越して殺意すら湧くね」
「…ぁ」
「この間もせっかく僕が遊びに誘ったのに、ロロと約束があるとか言って拒否してくれたし」
「ぃ…や、」
スザクの信じられないような話に、ナナリーが顔を真っ青にさせてかたかたと身を震わせた。
そんなナナリーをにっこりと見下ろし、スザクはとっておきの言葉を放つ。
「ルルーシュはもう、君のことなんてどうでもいいみたいだよ」
何せ、新しい弟のことで頭がいっぱいみたいだからね。
「いやあぁッ!」
その瞬間、ナナリーの絶叫が広い会議室に響き渡った。
それを室外で待機していたジノとアーニャ、ローマイヤが耳にし、何事かと口々にナナリーの名を呼びながら駆け込んでくる。
けれど彼らが目にしたものは、華奢な身体を車椅子の上で小さくして震えているナナリーと、そんな彼女をひどく喜ばしいとでも言うような笑みを浮かべて眺めているスザクの姿だった。
てっきり襲撃でも受けたのかと瞬時に臨戦態勢を整えていたジノとアーニャは困惑に眉をひそめ、ローマイヤはまさかスザクが何かしたのではないかと笑う彼を疑わしげに見た。
「えーと、…スザク?」
戸惑うジノの視線を受けて、スザクは白々しくも「総督にある報告をしたんだけど、どうやらそれがショックだったみたいで」などとのたまった。
スザクのその言葉に、無表情ながらも心配の色を瞳に浮かべて触れてくるアーニャにも答えず、声にならない悲鳴をこぼし続けていたはずのナナリーがきっ、と顔をあげた。
「あなたがそれを言うのですか、枢木スザク!!」
その、初めて聞くナナリーの怒りと憎しみに満ち満ちた声と、それを向けられたのが彼女といつも親しげに接していたスザクだったことに、ジノたちは驚くよりも困惑した。
そうしてどうすればいいのかと手を拱いているうちに、ナナリーはさらにスザクを罵る。
「あなたなど8年前に死んでいれば良かったのに!そうすれば私はお兄さまと引き離されることもなく、今でも平穏に暮らしていられたのに!」
ナナリーの優しい性格を知っているジノとアーニャは、スザクの死を願う呪いの言葉を吐く彼女が信じらず、思いもよらない事態に呆然としてしまった。
もちろんそれはローマイヤも同じで、いつだってイレブンの利となる政策ばかりを提案する小さな主がなぜ名誉とはいえやはりイレブンであるスザクにそんなことを言うのか理解できず、驚愕のまま何気なくスザクを盗み見て…硬直した。
視線の先のスザクは、寒気のするような笑みを口元に浮かべ、そのくせ目だけは凍りつくような憎しみを浮かべていたのだから。
「お兄さまを返しなさい!弟など…っ、そんなもの、私は絶対に認めません!」
ナナリーは、ルルーシュがどれほど慈愛に満ち溢れた人間かを知っている。
それゆえに、ロロという名らしい弟が今この瞬間もルルーシュにどれほど大切にされているかが確信をもって想像できてしまい、悔しさと憤りのあまり小さな両手を届くはずもないスザクへと伸ばしてしまう。
「ナナリー、残念だけど、既に彼は弟を懐に入れてしまっているよ」
掴みかかるように自分に手を伸ばし、危うく車椅子から落ちそうになってアーニャに抱きとめられているナナリーを愉悦を含んだ冷笑で見下ろしながら、なおもスザクは彼女の神経を逆なでするようなことを言う。
「黙りなさい!」
「無理だよそれは。だって事実だから」
「あっ、あなたは…ッ」
「ナナリーさまっ」
「やめろ、スザク!」
小さな身体で力の限り暴れるナナリーを抱きしめるアーニャの焦った声と、不敬きわまる暴言を吐くスザクを咎めるジノの声が重なった。
けれどナナリーにアーニャの声は届かず、スザクにジノの怒りは響かない。


「あなたなんて…!」
「君なんか」


死んでしまえばいい。


ルルーシュだけを求めるナナリーとスザクは、互いに同じ呪いの言葉を心底から願って相手に叩きつけた。






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